2010年03月07日

撮影/本間伸彦
2005年に『歌わせたい男たち』でまつもと市民芸術館に初登場、大好評を集めた、劇作家・永井愛の主宰する二兎社が再びやってきます。
「大盛況だったのを覚えてますよ。公演のあとに広い広いロビーでトークショーをやらせていただいたんですけど、そこにも多くのお客様に残っていただいて、とてもうれしかった思い出です」と当時を振り返る永井さん。
松本は、『萩家の三姉妹』の舞台として取材もした町。一昨年亡くなったお父様との最後の旅行では、安曇野にも足を伸ばしたとか。
「町があって、でも近郊に畑もあって。古い家並みが素敵で、文化的な匂いがする。こういう懐の深い風景は、東京よりも文化都市なんじゃないかって思わせる」
2006年に寺島しのぶの主演で樋口一葉を描いた『書く女』以来、久しぶりの新作『かたりの椅子』を、3月21、22日に、まつもと市民芸術館・実験劇場で上演します。物語は、東京郊外の町で「アートによる市の活性化」というテーマで行われる地域おこし事業を提唱する文化財団の理事長(銀粉蝶)と、アートディレクターに起用されたアーティスト・入川(山口馬木也)、そして民間から起用されたプロデューサー・りんこ(竹下景子)の刻々の変化を描きます。
「ここ数年、官僚というものにスポットがあたっているでしょ? 民主党政権になってからまず官僚主義の政治を正すといったり、小泉政権の郵政民営化のときは官僚が敵となって大勝利したり。官僚は一般人の敵で、税金を自由に使って勝手なことしているみたいなイメージで語られるようになってきましたよね。私自身そんなに官僚と接する機会があったわけじゃないけど、ちょっと個人的に印象深い体験がありまして(苦笑)、それが今回の芝居のモチーフになりました。日本って、社会的な物事が決まっていくときに、おかしいなと思うことがあっても、“しょうがないね”と割り切る大人の方が多いし、騒ぐとかっこ悪いという文化がある。そういうシステムになっているんだから、反対して騒いだって変わらないと、最初から闘うのをあきらめる気持ちが広がっているんですね。官僚主義がはびこるのも、そういう土壌があるからで、一部の悪い官僚が何かをするというよりも、それを支える精神性が私たちの方にもあるんですよ」
永井さんは、内田樹『日本辺境論』を例にさらに語ってくれた。
「東京裁判のときに日本の戦争主導者たちは、個人的にはあの戦争に反対だったと証言したんですって。でも、反対とは言えない成り行き、空気のようなものがあったと言い出し、連合軍側の検査官は、じゃあ、戦争は空気が始めたのかって驚いたんですって。他国では、特に欧米では空気で何かが始まることはありえないんでしょうけど、日本ではあり得る。そう言われて分からなくはないでしょう? でも理不尽なことだし、決していい伝統ではない。空気が読めない(KY)って日本では異常にバカにされるけど、読めない、あえて読まないことも大切にしなくちゃいけないなって、改めて思いました。
だからこれは官僚が悪で、民が善だという話では全然ないんです。どんな組織でも、目的から離れて組織自体を守ろうとすると、官僚主義にはまってしまう。形式主義で、秘密主義で、根回し主義で、対話を避ける。そういう保守的な傾向は、家庭のなかにもあるし、個人の内面にも、官僚主義とそうじゃないものがせめぎあっているでしょ? そういうものを描いてみたいんです」
『かたりの椅子』で入川は、市民が街中に置かれた椅子に自由に座り、忌憚なく語り合う「かたりの椅子プロジェクト」と、街の歴史を市民自身がドキュメンタリーふうに演じる市民劇を提案します。しかし理事長は「街の負の歴史があぶり出される」などの理由でこれに反対、りんこはその調整に振り回され‥‥。
この作品を描くにあたって、永井さんは、東京郊外の街を取材しました。
「物語では、たかがアートフェスティバルなのに、大まじめに生きる死ぬの話になっていく。これはバカバカしいおかしさなんだけど、決してあり得ないことではない。取材した某市で行われたフェスティバルは、官民による実行委員会形式で行われたんですが、民と官にいろんな行き違いがあった。関わった方の話す風情や、こっちに財団、こっちにお役所、そっちに神社という風景に接すると、芝居の場面が具体的に見えてくる気がした。その街は、昔は米軍相手の歓楽街が広がっていたところなんです。基地をめぐるトラブルは各地にありますが、そこは、基地があるから繁栄するんだと言う経済派と、子供をこんな環境で育てたくないという環境派の対立の末に、環境派が勝って文教都市になるというドラマがあった。この話も題材に使わせていただきました。私の体験した官僚主義は小さなものですけども、こうしてフィクションに置き換えることで、その実体を確かめてみたかった」
『かたりの椅子』のチラシは、出演者がみな“空気の椅子”に座っています。ふだんは「○○さんの部屋」といった具合にリアルな装置や小道具をもちいる永井作品ですが、今回は、ほとんど素舞台のような空間でのお芝居だそうです。
「お茶を飲みながら話すなんてシーンは一つもありません。役者さんも当初は不安そうに演じられていましたね。どうしてそういうことになっているかと言えば、私の個人的な経験のなかで受けた官僚主義に対する “へんな感じ”は、リアルな装置では出せないんですね。……しいて言えば、カフカの世界に近かった。通常の理屈は到底通用しない。あ、これは決してドキュメントじゃないですよ。実際に放たれたせりふはいくつかあるけれど(笑)、架空の話ですから」
最後に永井さんはおっしゃいました。
「この作品を書く際に悩んでいた時期に、翻訳家の松岡和子さんに“インテグリティ”という単語について教わったんです。シェイクスピアを訳しているとよく出てくるんですって。IT用語としてはシステムの健全性とか一貫性を言うらしいのですが、人間に当てはめられたときには、ピッタリした日本語がなくて、翻訳に困るそうです。“良心”と訳す方も多いらしいですが、松岡さんによれば、“節(せつ)”の方が近いそうです。 “インテグリティ”は、自分が自分に対して、自分はこういう人間でありたいと結ぶ契約のような、「良心」よりもう一段階深い概念なんだとか。自分が自分であるために、内部に持つプライド。これは、ある行為を、人にバレなければ恥にならないからと自らに許してしまう官僚主義の対極にある概念ではないかと思います。ここらへんをちょっと自分に関連づけて、ご自分の内部体験を振り返りながら、この作品を観てくださる方もいるかもしれない。そういう意味でも“観る人を心の迷宮へと誘う、背筋の凍る喜劇!”にしたいです」







