芝居の歓び
両者の折り合いをつけるのが難しい段階にさしかかった。ここをうまく乗り越えないと集団はバラバラになってしまい、舞台は息づいてこない。
芝居がめんどうなのは、自分ひとりがどんなにがんばっても良い結果が得られないところだ。相手役とのやりとりを通してしか自分は舞台に存在できない仕組みになっている。そこが他の表現と質的にまったく異なっている。そもそもスタンドプレーが成り立たないジャンルなのだ。
ほんの一場面でもいい。相手役とのやりとりを通して、相手がいるからこそ自分がここに立っていられることを実感してほしい。そして、いちばん嬉しいのは、昨夜ひとりであれこれ考えた役の思いを相手役にぶつけたとき、それをしっかりと受け止め、そのうえで、相手役の気持ちを適確に返されたときの歓びだ。これを一度味わってしまうとメンバーに対する細々とした不満は吹き飛んでしまう。芝居は病みつきになると言われるが、この開放感がたまらないからだと思う。
これに似たことは日常生活でもしばしば起こり得る。だから、何だかんだといってもやっていられる。しかし芝居は、他のことは全部虚構だが、この歓びだけは本物である。というより、この歓びを純粋培養する実験室が芝居なのだ。
“自己責任”という冷えびえとした言葉が溢れている昨今、その対極にあるのが私たちの集まりだと思う。
ほんの一場面でもいい。相手役とのやりとりを通して、相手がいるからこそ自分がここに立っていられることを実感してほしい。そして、いちばん嬉しいのは、昨夜ひとりであれこれ考えた役の思いを相手役にぶつけたとき、それをしっかりと受け止め、そのうえで、相手役の気持ちを適確に返されたときの歓びだ。これを一度味わってしまうとメンバーに対する細々とした不満は吹き飛んでしまう。芝居は病みつきになると言われるが、この開放感がたまらないからだと思う。
これに似たことは日常生活でもしばしば起こり得る。だから、何だかんだといってもやっていられる。しかし芝居は、他のことは全部虚構だが、この歓びだけは本物である。というより、この歓びを純粋培養する実験室が芝居なのだ。
“自己責任”という冷えびえとした言葉が溢れている昨今、その対極にあるのが私たちの集まりだと思う。


