「グリム童話」の魅力
―― 串田さんの作品は、今回の「グリム」に限らず、どの作品も童話を読んだ後のような印象を持つんですよね。
串田 へー、そうなの。
―― 『ゴドーを待ちながら』にしても、『スカパン』にしても、『コーカサスの白墨の輪』にしても、もちろん登場人物は現実的なことを話しているけど、できあがった作品は、わりと童話っぽいなあって。
串田 そう言われれば、「そう見えるのかぁ」とも思うけど、本人は別に、「童話にしよう!」なんて思ってつくっているわけじゃないんだけどね。人によっていろんな風に感じてくれていいんだよ。このあいだは「歌舞伎も含めて串田さんの芝居は、いつも死の匂いがする」なんて言われて、「ふーん」と思ったばかりだしね。
串田 へー、そうなの。
―― 『ゴドーを待ちながら』にしても、『スカパン』にしても、『コーカサスの白墨の輪』にしても、もちろん登場人物は現実的なことを話しているけど、できあがった作品は、わりと童話っぽいなあって。
串田 そう言われれば、「そう見えるのかぁ」とも思うけど、本人は別に、「童話にしよう!」なんて思ってつくっているわけじゃないんだけどね。人によっていろんな風に感じてくれていいんだよ。このあいだは「歌舞伎も含めて串田さんの芝居は、いつも死の匂いがする」なんて言われて、「ふーん」と思ったばかりだしね。
―― その串田さんが、いわゆる「童話」といわれているものを、今回題材にする。いろいろな童話がある中でどうして「グリム」を選んだのですか?
串田 「童話」という言い方をすると、まさに子どものためのお話ということになるけど、本当に子どもだけのためのお話なのか解からないね。おとぎ話、メルヘン、いろんな言い方をしてみても、なんだか「グリム童話」の本質をうまく表せないような気がする。それこそ死の匂いがするし。
「グリム童話」といっても、グリム兄弟が実際に書き下ろした話ではなく、長い間ドイツ周辺に伝わっていた説話を集めたものなんだ。アンデルセンとか宮沢賢治とか、ひとりの人間が意図的に書き上げたお話ではなく、誰ともなく人から人へ語り継がれ、その度に少しずつ変化していった説話を、グリム兄弟がいろいろな人から聞きながら記録していったもの。
だから作者は、その時代のその辺りの人々だね。その時その時の聞き手によって、変わっていた物語。そうね、語った人だけでなく聞き手もまた作者の仲間といえるね。
近代的な作家というものは、自分の責任において、「世の中はこういうものですよ」とか「こんなことをしていけない」とか、或いは「こんな感情が湧いた」とか、人間の情感や考えを伝えようとしてるでしょ?でも「グリム童話」には物語がまるで無作為に綴られていて、いきなり魔法にかけられたりね、馬に話しかけられたり、主人公がいきなり殺されたりね。鼠と腸詰めが一緒に暮らしていたり、とにかく支離滅裂というか自由なんだね。
でもそれは表面的な意識では理屈にあわないように思えるのだけど、人間の深層心理の中にはちゃんと存在している感覚だったりするから、別の角度から見た人間やその社会といったものをみごとに表現しているんだ。だからこんなに長い間世界中の人々に興味を持たれ、みんなが読んでいるんだろうね。「こんなことはありえない」と思っても、なんだかその話は楽しい。或いはすごく怖いけど不思議な魅力がある。僕もグリム童話のそういうところが好きなのかもしれない。
グリム童話の中に感じられるリアリティを演劇にしてみたい。逆の言い方をすれば、この世をリアリティあるものとして表現しようとしたとき、現実のままを表現するより、メルヘンと呼ばれるある意味無責任な説話を題材にしたほうが、かえって見えてくるんじゃないかと思っているんだ。歌舞伎なんかもそういうところがある。僕が今歌舞伎の演出に興味を持っているのも、一見絵空事のような作り話の中に、びっくりするような真実が隠れているからなんだ。
だから童話という定義を、子どものためのお話と捉えるのではなく、人間の潜在意識の中にあるものが作り出した説話というふうに考えている。もちろん子どもたちも一緒になって楽しんでもらえる舞台にしたいけど、今までの教育者が考えるような「子どもに害のない」とか「ショックを与えすぎない」という意味の「柔らかい童話」にはならないと思う。不思議であることが、とても魅力的な、つじつまの合わなさがとても楽しく感じられるようなお芝居にしたいなあ。
(つづきます)
串田 「童話」という言い方をすると、まさに子どものためのお話ということになるけど、本当に子どもだけのためのお話なのか解からないね。おとぎ話、メルヘン、いろんな言い方をしてみても、なんだか「グリム童話」の本質をうまく表せないような気がする。それこそ死の匂いがするし。
「グリム童話」といっても、グリム兄弟が実際に書き下ろした話ではなく、長い間ドイツ周辺に伝わっていた説話を集めたものなんだ。アンデルセンとか宮沢賢治とか、ひとりの人間が意図的に書き上げたお話ではなく、誰ともなく人から人へ語り継がれ、その度に少しずつ変化していった説話を、グリム兄弟がいろいろな人から聞きながら記録していったもの。
だから作者は、その時代のその辺りの人々だね。その時その時の聞き手によって、変わっていた物語。そうね、語った人だけでなく聞き手もまた作者の仲間といえるね。
近代的な作家というものは、自分の責任において、「世の中はこういうものですよ」とか「こんなことをしていけない」とか、或いは「こんな感情が湧いた」とか、人間の情感や考えを伝えようとしてるでしょ?でも「グリム童話」には物語がまるで無作為に綴られていて、いきなり魔法にかけられたりね、馬に話しかけられたり、主人公がいきなり殺されたりね。鼠と腸詰めが一緒に暮らしていたり、とにかく支離滅裂というか自由なんだね。
でもそれは表面的な意識では理屈にあわないように思えるのだけど、人間の深層心理の中にはちゃんと存在している感覚だったりするから、別の角度から見た人間やその社会といったものをみごとに表現しているんだ。だからこんなに長い間世界中の人々に興味を持たれ、みんなが読んでいるんだろうね。「こんなことはありえない」と思っても、なんだかその話は楽しい。或いはすごく怖いけど不思議な魅力がある。僕もグリム童話のそういうところが好きなのかもしれない。
グリム童話の中に感じられるリアリティを演劇にしてみたい。逆の言い方をすれば、この世をリアリティあるものとして表現しようとしたとき、現実のままを表現するより、メルヘンと呼ばれるある意味無責任な説話を題材にしたほうが、かえって見えてくるんじゃないかと思っているんだ。歌舞伎なんかもそういうところがある。僕が今歌舞伎の演出に興味を持っているのも、一見絵空事のような作り話の中に、びっくりするような真実が隠れているからなんだ。
だから童話という定義を、子どものためのお話と捉えるのではなく、人間の潜在意識の中にあるものが作り出した説話というふうに考えている。もちろん子どもたちも一緒になって楽しんでもらえる舞台にしたいけど、今までの教育者が考えるような「子どもに害のない」とか「ショックを与えすぎない」という意味の「柔らかい童話」にはならないと思う。不思議であることが、とても魅力的な、つじつまの合わなさがとても楽しく感じられるようなお芝居にしたいなあ。
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