串田和美にとっての「演劇」
―― 去年の秋に内田紳一郎さんと二人で演った『グリム・グリム・グリム』なんかでも子どもと大人と笑う箇所が全然ちがいましたね。
串田 そう。子どもは自由だからね。意味を知ってから笑うんじゃないんだね。ただその子にとって可笑しいから笑うんだ。怖い時も笑うしね。その横で大人がしかめ面をして理屈を見つけようとしているのが可笑しかった。いやいや、それもまた素敵な反応ではあるんだけどさ。
串田 そう。子どもは自由だからね。意味を知ってから笑うんじゃないんだね。ただその子にとって可笑しいから笑うんだ。怖い時も笑うしね。その横で大人がしかめ面をして理屈を見つけようとしているのが可笑しかった。いやいや、それもまた素敵な反応ではあるんだけどさ。
―― 串田さんの作品は、そういうような、子どもと大人が感じる部分がそれぞれ違うような、いい意味で「混沌」としている気がします。
串田 混沌か。芝居を観ながらあんまり混乱されても困るからね。リラックスして楽しんでもれえるようにいつも考えてはいるんだよ。でもね、今の人間は何でも即座に解決しないと落ち着かないようになっちゃっているんだね。「解かった」という気持ちにならないと安心できない。人間は科学的にいろいろなこの世の謎を解明したような気になって、かなり傲慢になっているからね。
最近の理解しがたい犯罪ニュースを見ても、すぐに社会心理学者みたいな解説者が出てきたり、コメンテーターがわけ知り顔で説明しだすでしょう?「物質的に平和な時代に…」とか「機械文明の発達によって失われた情緒が…」とか、なんか本当は何も解決していないようなことでも、とりあえずは「そうなんだ」と思わせてもらうと安心する。
謎を謎のまま自分で抱えていることって、大切なことだと思うんだけどね。答えは自分の中にしかないようなことまで、他人に即答してもらって、とりあえず安心したいんだね。
お芝居でも、そうだよ。「この作品は何を表現しているか」なんていうことまで、解説してもらわないと不安でたまらない。解説してもらうと、なんだかそれが自分の感想みたいな気になっちゃう。とてももったいないことだよね。
子どもは、自分があんまり物事の全てなんかわかっていないということを知っているから、自由なんだろうな。もちろん子どもにもよるだろうけど。先日ある公民館で出前公演した『グリム・グリム・グリム』の時も、一番前にいる子どもがね、同じ場面でも一人はゲラゲラ笑っているのに、隣の子は睨みつけるような目で真剣に観ていたり、別の子は退屈なのかごろごろしだしたり。演じながら、いいなあと思ったよ。
―― そういう想いは串田さんの作品にもすごく出ていると思います。シアターコクーンの芸術監督のときに言っていた「演劇はもっと音楽的に。音楽はもっと演劇的に」という言葉にもあらわれている気がしますが、「演技をする人がいるから演劇です」というのではなく、芝居の中に音楽を演奏することが大切な要素だったり、大道芸的なものが入ってきたり、今回の「ティンゲル・グリム」のように、宇野亜喜良さんというイラストレイターの巨匠のような人が一緒に加わっていたり。いわゆる「演劇」というのではなく、すごく「混沌」としたものという感じがします。
串田 うん。演劇というものは本来そういうものでしょう。
―― では、串田さんにとっての「演劇」とはどういうものですか?作品をつくる時のスタンスは何ですか?
串田 僕はそういうものをひとつの定義に押し込めないようにしているんだ。いつも作品をつくる時は、今回僕にとって演劇ってなにかな?どんな立ち位置から臨んでいったらいいかな?という迷いからはじめる。
例えば歌舞伎にしても、ミュージカルにしても、世間がなんとなくイメージした定義、「歌舞伎とは、ミュージカルとはこういうものである」という概念に添ってつくっているものって、僕にはあまり興味が持てない。もっともっとそういう既成概念から自由になってつくり、観てくれる人たちも自由で豊かな感性で観てくれるものがつくれたら幸せだね。
(つづきます)
串田 混沌か。芝居を観ながらあんまり混乱されても困るからね。リラックスして楽しんでもれえるようにいつも考えてはいるんだよ。でもね、今の人間は何でも即座に解決しないと落ち着かないようになっちゃっているんだね。「解かった」という気持ちにならないと安心できない。人間は科学的にいろいろなこの世の謎を解明したような気になって、かなり傲慢になっているからね。
最近の理解しがたい犯罪ニュースを見ても、すぐに社会心理学者みたいな解説者が出てきたり、コメンテーターがわけ知り顔で説明しだすでしょう?「物質的に平和な時代に…」とか「機械文明の発達によって失われた情緒が…」とか、なんか本当は何も解決していないようなことでも、とりあえずは「そうなんだ」と思わせてもらうと安心する。
謎を謎のまま自分で抱えていることって、大切なことだと思うんだけどね。答えは自分の中にしかないようなことまで、他人に即答してもらって、とりあえず安心したいんだね。
お芝居でも、そうだよ。「この作品は何を表現しているか」なんていうことまで、解説してもらわないと不安でたまらない。解説してもらうと、なんだかそれが自分の感想みたいな気になっちゃう。とてももったいないことだよね。
子どもは、自分があんまり物事の全てなんかわかっていないということを知っているから、自由なんだろうな。もちろん子どもにもよるだろうけど。先日ある公民館で出前公演した『グリム・グリム・グリム』の時も、一番前にいる子どもがね、同じ場面でも一人はゲラゲラ笑っているのに、隣の子は睨みつけるような目で真剣に観ていたり、別の子は退屈なのかごろごろしだしたり。演じながら、いいなあと思ったよ。
―― そういう想いは串田さんの作品にもすごく出ていると思います。シアターコクーンの芸術監督のときに言っていた「演劇はもっと音楽的に。音楽はもっと演劇的に」という言葉にもあらわれている気がしますが、「演技をする人がいるから演劇です」というのではなく、芝居の中に音楽を演奏することが大切な要素だったり、大道芸的なものが入ってきたり、今回の「ティンゲル・グリム」のように、宇野亜喜良さんというイラストレイターの巨匠のような人が一緒に加わっていたり。いわゆる「演劇」というのではなく、すごく「混沌」としたものという感じがします。
串田 うん。演劇というものは本来そういうものでしょう。
―― では、串田さんにとっての「演劇」とはどういうものですか?作品をつくる時のスタンスは何ですか?
串田 僕はそういうものをひとつの定義に押し込めないようにしているんだ。いつも作品をつくる時は、今回僕にとって演劇ってなにかな?どんな立ち位置から臨んでいったらいいかな?という迷いからはじめる。
例えば歌舞伎にしても、ミュージカルにしても、世間がなんとなくイメージした定義、「歌舞伎とは、ミュージカルとはこういうものである」という概念に添ってつくっているものって、僕にはあまり興味が持てない。もっともっとそういう既成概念から自由になってつくり、観てくれる人たちも自由で豊かな感性で観てくれるものがつくれたら幸せだね。
(つづきます)


