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<レポート>レクチャーシリーズ⑦「白い病気」の魅力

1月27日(土)、「チェコ藏」を主宰されているペトル・ホリーさんによる『白い病気』をより楽しむための、レクチャーを開催いたしました。
チェコご出身のホリーさんは、歌舞伎に魅了されて20年前に来日されてから日本の演劇を専門に研究をされてるのですが、本作について詳しい話ができるのは日本で僕だけだろうと、力強く引き受けてくださいました。カレル・チャペックについて、さらにこの作品がどのような背景で書かれたのか、その魅力も含めてたっぷりと紹介いただきましたので、皆さんにもこのレポートで少しだけお伝えできればと思います。

ペトル・ホリー(早稲田大学演劇博物館招聘研究員/「チェコ蔵」主宰)
プラハ郊外ドブジーシュ生まれ。1990年プラハ・カレル大学哲学部日本学科に入学し、語学短期留学で初来日。1993~94年早稲田大学、1998~00年東京学芸大学大学院、その後、早稲田大学第一文学部助手、2006年に、チェコ大使館チェコセンター東京を新たに開設、同時に所長に就任。ヤン・シュバンクマイエル監督の映画字幕作成や、書籍翻訳、また、作家カレル・チャペックの翻訳監修、関連書籍の執筆をはじめ、チェコ文化を広く日本に紹介。2013年にチェコセンター所長を満期退任。現在、未だ知られざるチェコ文化・芸術の紹介と普及をめざした「チェコ蔵」を主宰、チェコ文化関連のイヴェントや講師、講演会など数多くこなし、公的な通訳・翻訳業にも携わる。

 

ヨゼフとカレルのチャペック兄弟

 

ホリーさんが「構造が素朴でありながら、奥深い作品を残した」と語るカレル・チャペックと、もう一人のチャペック、兄のヨゼフ・チャペックについてのお話しから、レクチャーは始まりました。

チャペックたちは、当時のオーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方(後のチェコスロヴァキア)の片田舎に生まれ、その後に生活した北東ボヘミア地域では交霊術などもさかんに行われており、そういった集まりに参加したこともあったそうです。これらの経験は、おとぎ話なども多く残した彼らの発想の原点かもしれませんね。

――兄弟でこのように面白いポーズの写真が沢山残っている

そしてまずは、カレルが「R.U.R」を書いたときにロボットという言葉を提案したという、ヨゼフ・チャペックについて。

彼は、チェコでも有名な画家で作家、そして弟と何作かお芝居を合作したため劇作家でもあり、舞台装置のデザインもしていました。
原始的美術(民芸的なアート)に早くから注目し、プラハでは造形芸術家団体を立ち上げ、芸術雑誌の編集長もつとめていました。一番有名なのは、ヨゼフの描いた絵本「こいぬとこねこの愉快な仲間」で、ホリーさんも幼い頃に必ず読んだそうです。
兄弟でふざけている写真や笑い合っている写真を沢山残し、兄弟の仲の良さが伺えます。
しかしヨゼフは、第二次世界大戦の悲惨な被害者として、強制収容所で亡くなります。
ご遺体もどこにあるのか亡くなった日も不明で、収容所のなかで、収容された人々などを描いた絵が何枚か奇跡的に残っているそうです。

カレル・チャペックは、田舎街からプラハの一流大学で哲学を学び、さらにベルリン大学・ソルボンヌ大学に留学する、とても熱心な勉強家でした。そして、1914年に第一世界大戦が勃発。カレルは、もともと持病リュウマチがあったので兵役は免れたのですが、この戦争が彼の作風に大きな影響を与えたようです。
その後、国民新聞でライターをつとめますが、並行して1920年に『R.U.R』を書きました。
日本でも『人造人間』という翻訳で、築地小劇場で土方巽や小山内薫が上演するなど、注目されました。ちなみに、カレル・チャペックの『虫の生活』が日本で上演された際には、吉田謙吉による舞台装置で初めて映写機(プロジェクター)が使用され、当時の日本の演劇人にも新しい発想を与えたのかもしれません。
さらに最近公開されたヤン・シュヴァンクマイエルの最新作の映画『昆虫』は、カレルの『虫の生活』を題材としており、チェコでも大きな存在であることがわかります。

そして、当時から反戦的なものをテーマに作品を書くようになりましたが、保守的な国民新聞に不安を覚え、民衆新聞に移籍し、亡くなるまで職業は「新聞記者」であったそうです。
その後、宝塚歌劇団がちょうど現在上演している『不滅の棘』の原作となった戯曲『マクロプラス事件』や、小説『絶対子工場』などを発表。そしてこの頃から、政治家や知識人を招いて討論する「金曜会」を始めます。そこには、二つの国を無血で一つの国にすることに成功したチェコスロヴァキアの初代大統領、マサリク大統領も参加していました。さらには、“ペンクラブ”のチェコ支部までも立ち上げます。

しかし、忙しいなかでも園芸家として知られるカレルは、1929年には『園芸家12ヶ月』=自分の庭をいかに愛してゆけば花が育つか、という作品も書き、さらに彼が愛していた、庭と、犬と猫たちの絵本『ダーシェンカ あるいは子犬の生活』を出版。戦争の影が近づきつつある30年代、けれど子どもたちには明るい希望を与えたいという思いからだそうです。この本はいまも、チェコでは子どもたちが必ず読むそうです。

車120kmで走れば1~2時間で着いてしまう(松本~東京よりも近い距離の)国で起こっているヒトラーの内閣の発足や、さらには遠い国の満州事変についてもチャペックは不安を寄せていました。1930年代初頭から反戦に立ち上がった芸術家・作家はまだ少なく、かなり早い段階からカレルは問題視していた作家といえます。隣国の脅威を早くから感じていたのでしょう。1936年には、ナチ党を山椒魚にたとえた『山椒魚戦争』を書きます。
同年のインタビューで何が欲しいかと問われ、一言「平和」と答えたそうです。そして、その年末から、カレルが何か大きな作品を書いていると噂になったそうです。

それが、1937年1月29日に初演された『白い病気』でした。

 

チャペックが『白い病気』に込めた危険な思惑

 

今回、串田和美演出にて上演する『白い病気』。日本では近年あまり上演されていないのではないでしょうか。
この「白い病気」は白い斑点ができ、やがて死に至るという病ですが、なぜ「白」なのか。書かれた当時のナチズムの人種差別(白人主義)を揶揄したと言われています。そして後に戯曲として再版された「白い病気」の表紙には、ドイツ軍のヘルメットをかぶったドクロの兵士が表紙となっています。まさに隣国のことを描いています。チェコでは、上演されたら戯曲が必ず出版され読むという習慣があるそうですが、これは第7版まで重版され人気戯曲となりました。

――「白い病気」映画撮影現場の写真を紹介

チェコ人は、どんな辛いときにも笑って飛ばすような国民性があり、第二次世界大戦時に占領された際には、ドイツの司令官にチェコ人は「笑う野獣」(=笑いながら刺すのではなくえぐる人たち)と言われたこともあるそうです。そのため、上記の写真もチャペック兄弟はじめ、皆笑っている姿が多いのです。

さらに本作では、堂々とユダヤ人の俳優フゴ・ハースに主役を託しました。フゴ・ハースは喜劇俳優で女性ファンも多く、普段の俳優のイメージとは全く異なる役柄を演じましたが、観客はファンも含め絶賛しました。しかし、ユダヤ人を主演にするということで批判も多くうけ、当時とても危険なことでした。ちなみに配役は、初日に発表されたそうです。
同じキャストで映画にもなりましたが、1938年ミュンヘンでの国際会議でヒトラーの要求が認められ、映画は上映中止になります。チャペックは諦めず『白い病気』よりもさらに悲劇的な『母』という作品を残します。しかし、1938年12月カレル・チャペックは肺炎によりこの世を去りました。

――プラハ城から街をのぞむ独裁者ヒトラー

このヒトラーがプラハ城から望む様子は、まさに『白い病気』の中でチャペックが予言していた姿でした。
その後、チャペックの自宅にはドイツ兵が逮捕しようと訪れますが、夫人は、すでに亡くなったと、チェコ人らしく嫌味たっぷりに伝えたそうです。

ホリーさんから最後に、串田版『白い病気』への期待の言葉をいただきました。

串田さんがこの時代に、この作品をどう創られるのか。まだ全くわからないけれど、でも串田さんだからただの悲劇ではなく楽しい演出もあるのではないかと思っています。今回市民コーラスの皆さんが参加されると聞きましたが、チャペックが初演したときも55名の合唱隊が出ていたそうです。それは、戦争になるかもしれないというときに、その歌に一つのメッセージが込められ、出演者と観客も一緒になって歌っていたようです。串田さんも音楽に精通しているから、今回合唱曲も加わり、串田さんの手にかかってどんな『白い病気』が生まれるのか楽しみです。

 

さあ、どんな『白い病気』が上演されるのか。
色んな視点から、お楽しみいただければ幸いです。

 

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